たてただけ

三日坊主にすらなれない

「シリアルキラー展2019」に行った雑感を、「ハウス・ジャック・ビルト」も少々絡めつつ。

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銀座・ヴァニラ画廊の「シリアルキラー展2019」へ行きました。

 

時代・場所・性別・年齢・境遇がバラバラな彼らなので、虐待や私怨など、心に傷を負った「原因」に共通点を見出したいところだし、ワイドショーだとか安易な考えだと、だいたいそこから「56した理由分かったね!おわりっ!」ってなるところ。

しかしピーター・サトクリフのように境遇は悪くなかったり(ED等で「内面的には」あったらしいが)、その兆候が無かったりしたのに、ある時突然「一線」を超える者もいることが展示ではしっかりと記されていた。


果たして私たちと彼らの違いは何なのか?


もちろんジョン・ゲイシーのピエロはじめ、彼らが残(遺)したアートから乱雑さや奇妙さ、そして美しさを感じ、「異常性」を見出すこともできた。しかし同時に展示されている直筆(であろう、あるいはタイピングした)手紙には「新年おめでとう!」だとか、「自分を覚えてる人がいるなんて…」だとか、ごくごく「普通」の文面が刻まれていた。


「隔てる壁」なんてないのではないだろうか?


彼らの「異常性」に「理由」を探そうとするのは「私たちは彼らとは違うんだ」という安心を得るため、そして誰しもの心の中に潜んでいる「衝動」を抑え込みたいため。

 

 

「ハウス・ジャック・ビルト」では、ユマ・サーマン演じる「あなた殺人鬼かも」等とからかってきた女性に突然手をかけたのが、ジャックの長きにわたる凶行の始まりだった。

なぜこのタイミングで?なぜ彼女を?その理由は語られない。

ジャックが病的なほど几帳面で心配性だったのは間違いない、でもそんな人この世にゴマンといる。

 

大きな違いはない。ただ手をかけたかどうか、「一線」を超えたかどうか。

 

 

どこかで通り魔などの大量殺人が起きた際、武田鉄矢氏が「人は人を殺さない、殺せない」と言っている動画がSNS上でよく取り上げられる。

2009年にNHKで放映された「リミット-刑事の現場2-」のワンシーンだ。

彼の言葉を受けて、現実で凶行に至った者を糾弾する。という図がある種「形式化」している。

 

この展示を見終えて、あの言葉がどうにも引っかかるようになってしまった。

「お前は人間じゃないから人を殺した」ではなく、「人を殺した瞬間に"人間"でなくなった」のではないだろうか。そう思うようになった。

公式サイトを見ると、動画で「一歩間違えていたら私が彼の立場になっていたかも」と犯人をフォローしていた森山未來演じる加藤を主人公とし、武田鉄矢演じる梅木は悪役側で描かれており、該当のシーンは序盤のものだとわかる。

この後の展開で梅木の真意が明らかになることだと思われるが、私自身が未見なのでそれ以上は分からない。

それでもひとつ言えることは、この動画をダシにして多くの人が「私たちは彼と全く違うものだ、と安心したい」と思っているということだ。

 

しかし、そんな「別の異形」と思いたいとしているにも関わらず、何故私たちは「彼ら」に惹かれるのか?

 

ここまで考えた後だとそれはもう簡単で、「彼ら」は私たちのifでしかないからだ。


誰もが持っているけども決して現してはならない、そんな「怪物」を解き放ってしまった彼らにシンパシーを感じているからこそ、私たちは彼らに魅了されてしまうのだろう。そしてその誘いはすぐ近くに、あるいはもう既に心の中にある。

 

“Anything you see in me is in you.” - 「お前が私に見るものは、全てお前の中にある」

 

このチャールズ・マンソンの言葉は、今も我々の中で恐ろしく、そして魅力的に繰り返されている。

 

 

17:30頃から見始めたんですけど、読める字の英文はちゃんと読もうとして回っていたら、後半部分はbio読んで流し〜になってしまった。

なのでそのつもりの方は2時間くらい確保しておいた方がいいと思います。文字をかなり崩してた手紙も読めそうという方ならもっと余裕を持った方が良いかと。

 

展示を見ている際は周囲が怖くなりますので、ぜひお一人でお越しください。